霊的・心的問題の自己解決の為に

セルフリーディング、霊的・心的問題の自己解決の為の誘導を行います。

世間の問題への解答は聖典にある

(※セッションを申し込む方の為限定で記録しています。犯罪行為、いじめ、嫌がらせ、国際法違反の犯罪に関与する未熟者、悪魔主義者、修行者、スピリチュアリスト、偶像崇拝者、何らかの宗教の狂信者、は閲覧を固くお断りします。私は頭の混乱した倒錯者ではない。私のセッションを申し込む人を苦しめている原因はまさに彼らに存するからである。盗聴したり遠隔透視する輩にはその分の取り返しのつかない「カルマ」が発生するが覚悟せよ。冒涜者と不信仰者ばかりの世の中である。不届き者はこの先読むな、去れ。私にまつわる問題は国家レベルで起きるようになっている。嘘だと思うなら命をかけて犯罪行為を続ければよい。次の代償は「人命」である。)

 

 

「 左翼」と呼ばれる特殊な人達は情報という思想を共有したがる。
「あれ読んだ?ああだよね、こうだよね。私もそう思う」と言いたいのである。
しかし私には情報はすべて分析判断するための「収集材料」である。


PC盗聴者とは「思想チェック」を行い、同じ思想の者を探す旅人である。
「地獄行き決行中」の連中である。

彼らには、物事をあるがままに見るということがない。
思考分析もないまま即「レッテルを貼る」という、思考プロセスのない「すっとばし」を「物事をあるがままに見る」と言っている。
「レッテル」を貼る行為さえすれば、外からは「何を考えたか考えていないかわからない」ので、それでよしとする。
彼らの間で、また彼ら自身、
「何故そのようなレッテルを貼ったか」という理解は一切なされていない。
「レッテルを貼った」というみてくれ、外面だけを整えている、おどろくべき実態である。赤ん坊が、周りにあるものを指差して、「パーパ」「マーマ」「ブーブ」などと言っているだけです。


「レッテルを貼った」だからどうなのか?
それは何のためか?
全貌、全体の理解はない。
頭のいい人はレッテルを貼るから自分も貼った、同じ事をした。
その程度の理由であろう。
そこまでの幼稚さである。

 

私は子供のいじめ問題に今後焦点をあてて行く予定である。
そういう幼稚な連中に「騙されている」ことを知るだけでも状況はだいぶ変わるだろう。
「可哀相だから助けたい」と考えるが私は普通の人とは違うのではそうは考えない。

大乗仏教者は「可哀相」と呟くことで、あらゆる人間性や神聖さ人の尊厳をも「貶めている」こと、その態度は「潜在凶悪犯人」でさえあることも「共謀罪加担」の態度であることも、ここに指摘しておく。

 

「いじめられている人が可哀相」という者は、
「いじめられている人」に対して、
「いじめた者が効果した」その結果を、称えているのである。
つまり何らかの犯罪加担者であり、自己正当化のために、「可哀相」と意図的に呟いているに過ぎない。これは悪意である。
いじめられている人の尊厳、人間性を踏みにじる一言であることに気がつかねばならない。
そのような倒錯者である彼らを観察していけば気が付くようになる。
彼らは自分を「可哀相」と心底では考えており、他人をいじめることで自己の心理を投影している。プライドもない。
仏陀の瞑想を行うことができる、聖書を読むことのできる、洗礼を受け神の子とされ得る人のどこが「可哀相」なのか。

つまり自分がそれをしたくないのであり、人にもしてほしくないのである。

(※キリスト教で言われる「孤児の霊」)
「神」を「悪魔」と逆さまに言っている連中の思考である。

 

彼らはこのようにねじまがっている。
そのねじれ、歪み、はケースによって尋常ではないが、観察することが可能である。
しかし、彼ら自身は何度も説明の通り「観察」することができない。
観察できる仏陀が正しく、観察できない彼らは間違っている。


死んだ、殺された、いじめの対象になっている人が、私の定める「いじめられている被害者当人」であり、それ以外の人を「被害者」とは私は見なさない。
例えばこのPCを盗聴し、
「いじめられて殺されるような世の中だから、自分はいじめる側殺す側になったんだ、
自分だって、誰だって被害者だ」という倒錯思考持つ人が居たとしても、私は「被害者」としては一切認めない。

 


彼らのこの思考について解答を得たいなら聖典を読めば済む。彼ら無能については聖書に多くの記録がある。私は彼らが裏で何をしているのかを知るために彼らが犯罪マニュアルとしている聖書を読んだ。彼らは、一体どのような「絵本読み」をしているのかが人にばれることを大変怖れている。彼らは「真理の書物」を決して「読まない」。
人は怖れずどんどん聖書その他の聖典や書物を読むべきである。ゆとり教育などでバカを増やし、貶めておきたい狙いに対抗してください。書物を読むことは人の自然な欲求、行いです。

 


PC盗聴行為、これは人権侵害行為である犯罪行為である。
人を待ち伏せしたり、あらゆる犯罪の原因を作り出している。
この行為に加わっている連中はここを読むなと何度でも警告する、不愉快である。
私はこのような連中にターゲットにされ、何も知らず殺されていった、殺されそうな人の為に、この文を公開しているが、むしろ現実は、犯罪者の側があらゆる盗聴行為などにより世間の裏事情を知っている。

犯罪者などが宗教書や「教え」に近い文などを読み、「世間はひどい!」と念じている実態を、普通は犯罪にでも巻き込まれなければ知らず考えもしないものである。

 

 

自分は「世間の内」ではない「自称・神」なる連中は、「この世はひどい、世は終わった」と裏世界で「思想」を広げ続けているゆえに、いじめなどの社会問題は起きるのである。

自分は「世間の内」ではないとするこの連中は「選民思想」洗脳者であり、その正体は「世間に顔向けできないような仕事」についているとか、政治宗教活動などをしているかなどで、裏に何かを隠蔽しているがゆえに「特別意識」を持つようになるのが大半である。

そんな世の中は「ひどい!」と、繰り返し裏から念じている若者は、「終末思想」を持っている「死の近い老人」の思想を踏襲した子孫である。

また、彼らは「死んだら全部わかるよ」と言葉だけは偉そうに考えながら、いじめその他の悪事を行っている大乗仏教者であることも記しておく。

私は彼らが実際そのように呟くのを聞いた。

大乗仏教者は仏陀の次に偉い、世間をリードする立場であるという自覚があり、このとんでも意識は共有されているがために、「世の中はひどい!」と呟き犯罪行為に手を染めている。

 

どうすれば「犯罪」をなくすことができるか?

⇒子供の頃から監視し、「危険人物」を殺害対象者にするのである。

これが現在、全国で相当増えてきた、いじめによる自殺者の問題の裏側でうごめく連中の考え方である。

「死んだら全てわかる」などと、仏陀の教えでもなんでもないことを、平気でオリジナルで呟いている我が道を行く左翼である。(このようなスピリチュアル世界には関わらないことである。)

生きたまま悟りを得、全てを観察し理解した仏陀とその教えへの反抗である、「反仏陀」の思想である。(※彼らはキリストにも反抗している)
聖書を世界中に広げるどころか、「福音」を知らせまいとする連中の態度、思考である。
仏教では「生きている間に修行せよ、生まれ変わらないために」と教えている。
人は死んだら修行できない、また生まれてきて、涅槃の悟りに至るまで輪廻を繰り返すからである。

 


いじめなどで他者を自殺に追い込むのは「何の権威」を持ってかを私は問う。
これは「神の権威」への反抗である。

そもそも神に「権威」などない。「神」という一言では済まず「権威」という言葉などをわざわざつけてやらなければならないのは何故なのか。

私は何年も、彼らの思考分裂とすり替え、言葉遊び、言葉のレトリックを観察してきた。「権威」という言葉を神につけて使うのは、「神」にまさる「権威」を登場させる用意があることを示している。

「神の権威」と言えば、「権威ある◎◎も神」だ、と(口にせずとも)考えるように必ずなるのである。

彼らは思考が分裂しており、このようにそこ(神)にはとどまり続けられない。

「神」と一言言えば必ず連想ゲームが始まりそれに代わる「悪魔」を「権威ある◎◎」と表現しようと画策する。

 

 

あるがままを見る瞑想的態度とは程遠い「工作」である。

「もうすぐ死ぬ老人達」なので、話を進めさせたくない、物事が変化していくままに観察しない、ことが目的であり、「仏陀の瞑想修行」などはすっかり無意識にも否定、放棄、侮蔑していると私は見なす。

神と言えば神である。しかしそれ一つでは戦えないのが「無能」である。弱い。

「正統」以外のことを語ろう引き合いにだそうとするのがカルトである。

 


彼らは、「呪い殺したのに復活したキリスト」も許せないのである。
神の子をどんな権威を持っても殺せなかった。すでに決着は二千年前に着いている。

これがキリスト教の教えであるが、この福音、事実を無視し、「殺人マニュアル本」で読んだからという理由で、人を今だにキリストなどに見立てて殺そうとする、殺しているのは、頭が悪いからだとわかりますよね、普通。

(※自殺は自殺であり他殺ではない。「自殺者を誰も殺していない」と考えるからには、こちらにも考えがある。一切容赦しない。)

 

「そこ、既に終わっている、しかも二千年前に」と聖書に書いてある。

読め。
既にある実験論文を、知らずにまた自分が出そうとしても初めから無効である。

恥である。

 


キリストの復活は多方面で多くの人に目撃され当時の証言記録が聖書には残っている。
聖書が「嘘か本当か」を未だに問うているのは、読書量あるいは「徳」などが、
著しく低い、足りないからでしょう。
バカを相手にするのは、本当にばかばかしい。本を読めと私は何度も書く。
聖書が「嘘か本当か」と考えるレベルなので、大の大人が「神か悪魔か」などとも言っているのである。

書いてあることを読まないのであれば、「読んでいない」のである。

 

 

 

 

裏からpc盗聴し、人をターゲットにしている裏世界の「家族」がいじめなどで人を殺している。彼らは文字通り「親子」で犯行を行っている。
彼らは対象者を観察している。
小学生の対象者のフルネームを屋外の壁などに落書きし、人工衛星の目にとまるようにする小学生が存在する時代である。私は以後全て写真を保存する。
大人と子供が一緒になりこの犯罪行為を裏から行っている。

赤の他人の人生をわざわざ不幸にし、自分らの「乏しいマニュアル脳」に沿って、
赤の他人を「理解した」とし、その結果、世界でたった一人の人を「クローン化程度」にしか認識できず、またそのようにしか説明もできず、自分が無能ゆえ人にレッテル貼りして認識したために招いた結果であるが、どれもこれも似たような結論しか出せないという己の無能ぶり(自分がクローン脳だったという証明)を証明してしまった、
その犯罪行為の証拠を潰すしかなくなる、ちょっと理解力、推理力のありそうな世間の人にばれるのが嫌だから、と犯罪者は考えるようになる。

 

 

これが一連の、何度も繰り返されている無能の思考とその犯罪行為まみれ人生の流れである。

例えば、いじめのターゲットにしたい子供がPCなどで化学情報ばかりを読めば、
裏からpc盗聴する者は「将来化学兵器を使い人類抹殺計画を立てる犯罪者になる」と言って、心理操作し潰すだろう。
ある子供がピアノレッスンをすれば、世間の知力学力を音楽という道具を使って下げる、「魅力ある人」だ、スパイ活動としての表の顔に使うつもりだろう、
ピアニストになり、裏では何かやる気だ!と考え、過剰につきまとう理由を「創造」する、自称「神」の連中である。

 


ここまでの異常者かそれ以上の連中が、裏で操作していることをここにはっきり記録しておく。
彼らは例えばそのような言い分を正当化するために、世の中の悲惨さ、裏世界の汚さを見てみろと示し、「それが現実だ、世の中はひどい、足のひっぱりあいだ、裏の裏まで読め」と解き、無能仲間を増やすだろう。
仏陀の正統な瞑想修行などについて語られることは決してないことを追記する。
同じ「瞑想」のつくあらゆるスピリチュアル系、あるいはチベット系の瞑想が世間には幾らでも有り、彼らのお得意である「すりかえ」により、自分が師であると成りすます、だろう。自分が「神」である連中であるからである。

 


「このようなもろもろの殺害経験等を経て、いつか本当の瞑想修行が出来る人になる、行き着くようになる」も、ねじれにねじれた倒錯思考である。
私の経験から、仏陀の瞑想修行を知ったなら他の瞑想修行をするのは時間の無駄である。
瞑想したいと思うなら、三法への帰依の用意が既にできているはずだからである。
密教大乗仏教などその他の修行に「仏陀の瞑想修行」の教えはありません。
ましてや仏教とは、涅槃に至る為の瞑想修行を行う為に必要な「教え」のことであり、処世術ではない。

私は、「仏教」と呼ばれる世間の中に幾つもある教えの中には、実際に仏陀の教えた修行によって涅槃に至ることのできる教えと環境もあることを、こうして拡散している。その段階に進む人の為である。私は正統な教えが人に届かないように一切妨害しない。

その他のカルト思想者にはここは読めないようになっている。彼らには必要ない情報であろう。


「殺した後で反省すればいい」と考え、殺しを実行する。
これが大乗仏教の教えである。
これが「教え」としてまかり通るような救いがたいレベルなのである。
大乗仏教国であるチベットはあれだけの迫害を受け、同じく日本も危機である。
仏教国を自称するわりには「信仰」はないに等しい。


自分で聖典を読み比べてください。
聖典はこのような連中が読みたいように読める「絵本」ではない。
こういう連中は「都合よく」読むだろう。
そして「瞑想が遅れる」という自己都合の結果を生みだす。
ルール、聖霊、神聖、師や三法には従わない。


自分で物事を考えられる私は、
彼らの思考発言をつきつけられる度に初めから観察し分析する。
しかし、無能は彼らの発言について「本当かな?どうかな?などと考え」相手にするのである。
「本当かな?どうかな?などと考え」るべきかどうかの判断がつかないのは、
読書量不足、経験不足、学力不足である。

そして、わからないので、つまり奴らを「無視すればいいのね」となる。
それは「認識しない」ということで、「徹底して観察し理解」していない。
同じみの「思考の飛躍」である。

この考え方はそのまま、善悪の判断もつかない、応用能力ない連中によって、
「いじめ、はぶればいいんだと言っている!」と、
無能が無能ゆえに、「判断」を正当化するの使うだろう。
(そこまでは指摘しておく。更に辛辣な警告を我々は保持する。)

 


私はすでに知っているくだらない思考を突きつけられ、改めて観察している。
「私が知っている無能とどこが違うのか、同じなのか。」
これは瞑想的態度である。
私はくだらなさにあきあきしている。

 


私はここに、彼ら思考の飛躍する人達との違いを最小限に示す。

 

 

 

 

 

 

 

 

セッションを受け付けています。申し込まれる方はできる限り具体的に書いてください。(職業など、個人の判別がついてしまう情報は不要です。)主観・客観の区別がつくことはその旨記して下さい。

参照下さい、あて先です。⇒  https://profile.coconala.com/users/1036561

 

 

 

 

 

 

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